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常 滑 物 語
 1574年(天正2年)織田信長により 常滑の窯に使用禁止令が出た。
常滑城の三代城主水野監物(けんもつ)は、平素より家臣に対して「信長様に忠勤を
はげむ事こそ常滑の発展につながるのじゃ。」と言い聞かせてきた。
当時、信長は商業港、津島からの出荷が好調で多大な利益を上げていたがいまひとつ目玉商品にかけることを気にしていた。 
 その頃、焼き物の世界では多様な色彩の釉薬(うわぐすり)に相性のいい瀬戸の土が注目を集めていた。  瀬戸の焼き物に津島港の地の利を生かせば商業的に理想的な連携プレーが出来上がると信長は考え、常滑の窯を封印したのだった。
 水野はその後も信長への忠誠心は変わることなく、天目山の戦いでは武田勝頼を自決に追い込むなど目覚しい活躍をしたにもかかわらず、何の褒章もねぎらいの言葉さえ
なかった。
 その頃から、水野の心の中でかすかな音をたてて崩れるものがあった。
その数ヵ月後世の中に激震が走った。
 本能寺の凶変が起きたのである。
明智光秀を援護すべく挙兵した水野は馬上で、しだいに明けてゆく空のむこうに新しい時代をはっきりと見た。
 天正10年6月、都忘れの咲き乱れる朝露の道を水野勢、全軍は粛々と京へ向かうの
だった。


 祇園まつりの山鉾巡行が近づくと京の町はにわかに暑くなる。
水野監物と明智光秀は以前より、俳諧、茶の湯の仲間として親交はあった。
水野は東山に近い光秀の茶室を幾度も訪れた事はあるが、五度目にあたる訪問の時
は、後日、はっきり思い出すほど記録的な暑い日だった。

「この暑さでは仕事のはかがゆきません。 せねばならん事は多くあれど何もせぬに
まず一服せねばならんて。はっはっはっ」
 光秀はいつに変わらず冷静さと、兼ね備えた態度で、そう言って
笑った。
 武士の掟がすべての世界の中で、趣味を通じての会話は何の障壁も無いくだけたものだった。
水野はその気安さからつい、常づね気になっていることを光秀に尋ねたことがあっ
た。「都の噂では、秀吉殿があなた様にお上(信長)への不満をもらされ、それとなく謀反への誘いを
されているとの話がひそかに流れておりますが本当でございますか。」
 そのとき水野は即座に光秀が「何をたわけたことを、」と一笑に付すものと信じ、わ
ざと不躾な質問をしてみた。
双方が隠し事無く話の出来る仲なればこその質問であった。
それまで、優れた書家の筆さばきを見るような光秀のあざやかな所作が一瞬迷いを見
せた。
が、しかしすぐにそれは、また美しい時間の流れに戻っていた。
幾年か後にも、水野はその瞬間のことを不吉な事のように思い出す事があった。
                                           

                                        つづく
原作 瀧田 浩